24年目の1.172019年01月17日



24年前の早朝、「淡路島で大きな地震が起きたらしい」とその一報を聞いたのは、市内の病院のベッドの上だった。空腹と、点滴の針の痛みと、ニュースの恐怖とで、一瞬ふらっと貧血状態になったのを今でも覚えている。

予定日を10日近く過ぎて、陣痛が始まって夜中に入院。結局、次男が生まれたのは翌18日だった。

 

入院中、どのテレビからも、地震のすさまじさを物語る映像ばかりが映し出されていた。

6人部屋の病室には、横倒しになった高速道路のすぐそばに実家がある、という人がいて、「里帰り出産していたら、今ごろどうなっていたか……」と話していた。

退院してからは、次男に母乳を飲ませながらも、泣きながらテレビ報道を見続けた。

阪神淡路大震災。6434人が亡くなり、私は一つの命を授かった。その現実をかみしめていた。

 

毎年のように、この日のエッセイを書く。震災が起きたことと、次男出産の記憶とは、私のなかでしっかりとリンクしている。それを書かずにはいられない。

 

今年は、前日に『BRIDGE はじまりは1995.1.17神戸』というドラマを見た。関西出身の友人がFacebookにアップした記事で知ったものだ。

震災で分断された鉄道を復旧させるため、技術者たちは崩れかけた駅舎を復元しなければならなかった。2年以上はかかると言われた工事を74日で成し遂げた男たちの物語だ。たくましく誠実に難工事に立ち向かう姿も感動的だが、その駅を取り巻く人びとの温かな人情や、犠牲者への悲しみも描かれ、丁寧に作られた見ごたえのあるドラマだった。

 

私がどうも気になったのは、春日という少年。震災当時、世をすねて盗みを働くようなワルだった。23年たった2018年の彼も語り部として登場するのだが、なんとも得体のしれない人物である。彼は罪を償わないまま、大人になった。そのことが彼の心の傷になっているらしい。それぞれ野村周平と椎名桔平が好演している。




春日のような悪さをしたわけではないのに、次男が春日にダブって見えた。

明日24歳になる次男は、大学に入ってから挫折を味わい、卒業の見とおしも持たずに、人生に迷子になっているように思える。

いつも、彼の誕生日が近づくと、世の中はあの大震災を振り返り、犠牲者を悼むとともに、災害への備えを話題にする。それに呼応するように、私の気持ちのなか、次男の誕生日には暗い影が落ちる。明るく素直に喜べない気がするのだ。それは震災のせいばかりではないのかもしれないが……

 


旅のフォトエッセイ:世界遺産の五島列島めぐり②「心に残る」2018年11月30日


五島に行きたいと思うようになったのは、9年前にさかのぼります。
次男の忘れられない出来事にあるのです。

当時、それをエッセイにつづりました。まずはお読みいただきましょう。

 

 

    「心に残る」――母バージョン

 

ゴールデンウィークが明けた日、ひさしぶりに一人の静けさを味わっていると、次男の中学校から電話がかかってきた。

385分のお熱がありまして、今保健室で休んでいるのですが……」

車を飛ばして20分後、保健室には青い顔の息子がいた。

 

ちょうど、アメリカ帰りの大阪の高校生が、重症になりやすい新型インフルエンザで隔離された、というニュースが日本列島を不安に陥らせていた頃だ。

保健室の先生の話では、息子のクラスにもインフルエンザの生徒が数名出ているという。

私も青くなった。中3の息子たちは、5日後に長崎への修学旅行を控えていたのである。

「でもご安心ください、B型ですから」と、先生はにこっと笑った。

恐怖の新型はA型で、学校では安心のB型というわけだ。おそらく息子もその菌をもらったのだろう。

「発熱して1日たたないと菌が出ないことがあるので、検査は明日のほうが確実かもしれませんね」

とりあえず息子を連れて帰って寝かせる。夜には40度になり、解熱剤を飲ませた。大丈夫、出発まで5日ある。諦めるにはまだ早い。

あいにく私は、翌日の午前中は自分の習い事、午後からは仕事先の年に一度の総会が控えていた。しかたがない。午前中は休むことにして、医者に連れて行こう。総会では大事なお役目もあるから休むわけにはいかない。薬を飲んで眠っているうちに出かけてこよう。

 

翌日、午前中にかかりつけの小児科に連れて行く。検査の結果は予想どおりのインフルB型。

「ほうっておいても寝てれば自然に治るんだけどね」と医者は前置きして、「一刻も早く治したい事情があるということなので、特効薬を処方しましょう」。

薬はリレンザ。従来のタミフルは、副作用でまれに幻覚や妄想が起こるとされている。子どもの患者が異常行動で亡くなって以来、未成年には許可されなくなった。

「リレンザでも同様の副作用があるという報告もあります。服用したら24時間、目を離しちゃだめですよ」

大声を上げて外へ飛び出したり、窓から飛び降りたりする可能性もあるというのだ。

 

万事休す。午後からの総会もあきらめ、急きょ欠席のお詫びを入れて、代理を頼んだ。

吸飲式のリレンザは、簡単な器具に薬のパックを装てんして投与する。息子はやがて眠りについた。1時間おきに部屋をのぞいても、いつも死んだように眠っていた。

結局その日は、夜まで息子の爆睡を見守っただけだった。総会に出かけても大丈夫だったのに、と思う。でもそれは結果論だ。

わが家にはもう一人保護者がいるのだが、夫の育児への協力は土日祝日限定である。育児のために仕事を犠牲にするのはいつだって私。収入の多寡だと言われればそれまでだけれど、仕事である以上、私にも社会的な責任はあるんだけどな……。

 

翌日には息子の熱も下がり、リレンザのおかげで快方に向かった。2日間平熱が続けば完治とみなされる。旅行の前日には医者の診断書をもらって、午後からは登校できた。なんとか修学旅行に間に合ったのだ。

さて旅行当日の朝、最後のリレンザを吸いこんで、いざ出発……のはずが、トイレに入ったきり出てこない。薬の副作用から下痢を起こしたようだ。今度は下痢止めを飲ませる。ぎりぎりの時刻まで待って、集合場所の羽田へ向かわせた。中学生にとって、修学旅行に行かれないことぐらい悲しいことはない。そんな私の信念が、息子を送り出したのだった。

 


34日の旅を終え、元気に帰ってきた息子は、開口一番、こう言った。

「ありがとう、母さん!」

初日は辛かったけれど、2日目からは食欲も出たという。五島の海の青さ、班長として班別行動をとった思い出……口下手な息子の話でも、楽しかった様子が想像できた。

母さんが治してあげたわけではないけど、でもよかったね、みんなと行けて。

 

1ヵ月後、さらにおまけがつく。

国語の苦手な息子が書いた「心に残る」というタイトルの修学旅行記が、学校通信に載ったのである。

「仕事を休んでまで看病してくれた親のためにも、楽しめなければ悪いという気がした」

旅行記は、私の心に残る“最高傑作だった。




 ぎりぎりセーフの病み上がりで出かけ、元気になって帰ってきた息子。彼が見た海を、いつか私も見てみたい。願いは9年目にかなったのでした。

次回、「③頭ヶ島教会」に続きます。

 

 

自閉症児の母として(52):ショックです! 息子の頭が……2018年10月16日

 

朝、息子は出かけるときに、「今日は髪を切ります」と言っていました。

帰宅した息子を見て、絶句。坊主頭になっていたのです。ショックで息が止まりそうでした。

 

もう何年も前から、駅なかの1000円ぐらいで簡単にカットしてくれる床屋さんにお世話になっていました。最初は私がついていきましたが、すぐにチケットを買うやり方も覚えて、一人で行かれるようになりました。

その店が閉店になっても、隣駅や商店街などで、別の床屋を見つけてはそこで散髪していました。コミュニケーション障害のある彼が、理容師さんとどんなやり取りをしているのかと、ちょっと心配ではありましたが、いつもこざっぱりとして帰ってくるので、理容師さんにも何とか理解してもらえているのだろう、床屋に関してはすっかり自立した、と安心しきっていたのです。

 

息子は、私が驚いても、さほど悪びれるでもなく、「バリカンで??」などとおどけている。「床屋さんには何と言ったの」と聞いても、そういう説明は彼には無理なのです。あまり突っ込んで尋ねても、息子が傷ついても困るし、坊主頭が悪いと思い違いをされても困るので、あまり悲しい顔はできません。

おそらくは、「短くしてください」と頼んだら、「バリカンで?」と理容師さんに聞かれた。わけもわからず「はい」と答えた……といったところなのではないか。憶測するばかりです。

 

今日はたまたま、刑務所の話を聞いてきたのです。服役を終え出所した人の社会復帰を支援しているシスターの講話でした。なぜか、息子が受刑者のように見えてしまい……、ショックです。

話が通じているようでも、見かけと違って、息子の理解能力はかなり低い。そのことを改めて思い知らされたこの一件。いえいえ、行き違いがこの程度のことですんでよかった。そう思っておきましょうか。

髪が伸びるまでの1ヵ月、母は反省しながらじっと我慢の毎日です。

 


東国原さんみたいで、とても正面からの写真はお見せできません。

ただひとつ、頭の撫で心地だけは快感ですけどね。

息子は今夜も、何事もなかったように、ルーティンの食器洗いをしています。



自閉症児の母として(51):自閉症児を抱えた若いお母さんたちへ2018年09月28日


今日は、長男が3歳から通ってお世話になった療育施設で恩返しをしてきました。

現在、そこに通園している自閉症児のお母さんたちに、先輩母として、お話をさせてもらったのです。十数名の若いお母さんたちは、話を始める前から、もう目が潤んでいる。人の十倍泣き虫の私も、それを見ただけで早くももらい泣き……。

それでも、将来に対する不安や、兄弟間の問題など、困っていることを少しでも軽くしてあげたいという思いで、体験をお話ししました。

 

この施設では、母親ももちろん勉強でした。わかりにくい自閉症児の育て方を学びます。最初に教わったのが「受容的交流方法」。それは、あるがままを受け入れて、心を通わせていくという子育ての基本でした。

キーワードは3つ。「安心」をさせて、「経験」をさせて、自分の意思で行動できるように、ひいては「プライド」を持って生きていけるようになることが目標です。

 

子育ては自分ひとりではできません。みんなに助けてもらいましょう。

家族だけではなく、親戚、ご近所、学校、地域の人々……みんなに理解してもらい、見守ってもらい、助けてもらいましょう。

そう教わってきました。

私たち親子も、思い出すまでもなく、感謝してもしきれないほど、温かい人々に支えられた歳月でした。

 

「私も、『うちに子に限って、どうして?』ってずいぶん思いましたよ」

と、私が口にしたとたん、ほぼ全員がハンカチを取り出していました。そう思わなかったお母さんは一人もいないのです。

当時の園長先生は、私たちにこう言いました。

「自閉症児は、1000人に一人の割合で生まれると言われています。皆さんが大変な思いをして育てているからこそ、他の999人のおかあさんがフツウの子育てを楽しんでいられる。つまり、皆さんは、1000人の代表として自閉症児を育てているんですよ」

ああ、私たちは神様に選ばれたんだ、と思えた。代表としてのプライドを持って、この子のために前を向いてがんばろう、と思えたのです。

さて、何人のお母さんにわかってもらえたでしょうね。

 

写真はおみやげにいただいた、自閉症者のアーティストの絵はがき。

非凡な才能がほとばしっていて、惹かれる絵です。




自閉症児の母として(49):NHKさん、どーも!2018年06月10日




息子は、子どものころから、NHKのテレビ情報誌「週刊ステラ」を毎週欠かさず買っている。おそらく、「みんなのうた」や「おかあさんといっしょ」の番組からの興味で、創刊号から買い始めたのだと記憶する。



ちなみに、何歳から買っているのか、息子に聞いてみた。

4歳かな~」

ウィキペディアで調べてみた。創刊は1990523日。確かに彼は4歳だった。今から28年前である。ざっと数えても、年に約50回発行されるから、創刊号から1400冊ほどを購読してきた計算になる。

NHKから表彰されてもいいのでは、と思う。

 

いつ頃からだったか、クロスワードパズルが掲載されていて、息子はマス目を埋めるようになる。とはいえ一人では完成できず、週末には家にいる娘が、よく助け舟を出していた。

3年前の夏、娘が家を離れた翌週から、その役目が私に回ってきた。息子が自分で書きこんだ部分を見ると、難しい四文字熟語を答えていたり、流行りの言葉を知っていたり、と思えば、ヒントのやさしい漢字が読めなかったりと、彼の知識の偏りがおもしろい。

すべてが埋まったところで、指定されたマスの文字を拾ってクイズの答えがわかると、「できたー!」と満足するのだった。

 

そのパズルが、この4月から、ナンバープレースに替わってしまった。数独のクイズである。私はクロスワードのほうが断然好きだ。語彙がひらめくと自己満足に浸れる。数独は、時間をかけて解いていけば、かならず正解にたどり着けるはずだ、と高をくくっていた。

仕方がない、息子に付き合おう。彼こそ数字には強いから、解き方のコツさえ覚えれば、すぐに一人で解けるようになるだろう。

案の定、初回からルールを飲み込んだ。9つの四角の中と、縦と横の列の中に9つの数字がダブらないこと。それだけだ。

そのうちに、私より先に答えを書き込むようになり、やがて何回目かにはほぼ一人で仕上げてしまった。ナンプレ自立である。



ふと見ると、

「正解者の中から抽選で3人に、以下のプレゼントを差し上げます」

おなじみの文句が目に入った。せっかくだから、初応募してみようか。

「西郷どん どーもくん手ぬぐい」だって、いいじゃない。

はがきに、住所・氏名・年齢など必要項目を書かせて、投函する。

 

そして1ヵ月が過ぎた今日になって、届いたのである。

NHKステラと書かれた、ふにゃふにゃした分厚い封筒が。

 

Congratulations モト様!

厳選の結果、貴方様が当選されました。

 

ステラの誌上発表によれば、当選倍率67倍とある。私はそのあたりの規約には詳しくないのだが、ひょっとしたら、抽選ではなく、特別に選んでもらったのではないか、と密かに思った。

応募はがきの項目の最後は、「本誌へのご意見・ご感想など」だった。そこに、ステラと息子の28年の歴史を、母の手で書き込んだのである。

それを読んだ編集部の方が、一人の障害者を応援してくれた。いや、長年の購読者への感謝の気持ちかもしれない。

いずれにしても、私は素直にうれしい。私たち親子を支えてくれる人に、また出会えた。息子のことでメソメソしてばかりの近ごろの私には、何よりの励ましのプレゼントだった。

 

NHKさんどーも!


 

やったね、モト君!





 

 



自閉症児の母として(47):母の日に惑う2018年05月15日



おとといの母の日、自閉症の長男が、カーネーションを買ってきてくれました。例年なら夫がいて、二人で花屋に出かけていましたが、今年の母の日は夫が出勤で不在。息子は当然のように、一人で花屋へ行ってきました。

こんなことは初めてです。成長と言えるのかもしれません。




でもそれは、母親に対する感謝の気持ちというよりも、自閉症特有の「カレンダーどおりにイベントを行う。いつもと同じことをする」というこだわりの表れではないのか、とも思います。

本来なら、涙ながらに喜ぶはずのこの母親、手放しでは喜べず、複雑な心境です。 

 

最近、息子のことで、大きな壁にぶち当たっています。31年間に及ぶ彼の子育て史上、最大の難問といっても過言ではないでしょう。

今は書けません。いつの日か、穏やかに振り返って書けるときが来たら、書くつもりです。

 

あ、たったこれだけのことを書いただけで、人の十倍泣き虫な私は、またも涙……。泣いても笑っても、私は彼の母親です。愛情こめて、育ててきました。そしてこれから先もずっと。

 

モト君、きれいなカーネーションをありがとう。

 




自閉症児の母として(46):福山くんの「トモエ学園」を聴いて♪2017年12月30日




ちょうど1週間前の金曜日の夜、息子がテレビ朝日の「ミュージックステーション スーパーライブ2017」を見ていました。彼が毎週欠かさず見る番組の一つで、私のお気に入りのアーティストが出てくると、教えてくれるのです。

その夜は、福山くんで呼ばれました。歌うのは、「トモエ学園」という曲。黒柳徹子さんの自伝的ドラマ『トットちゃん!』の主題歌だとか。ドラマはちらりと見たことがありますが、曲は聞いたことがありません。

 

バイオリンのイントロで始まりました。

 

うれしいのに さみしくなる

たのしいのに かなしくなる

 

子どもの頃の学校を懐かしんで、感謝する気持ちが歌われていきます。

そして……

 

わたしたち 違うんだね

顔のかたち 心のかたち

 

歌詞を見ながら聞いているうちに、私は涙が出てきました。

息子たちの歌だ、と思ったのです。

自閉症に限らず、障害者すべての歌だと思えました。

 

  先生 友達 わたしの明日 作ってくれたの

  学び舎の日々 ありがとう

 

黒柳さんは、子どもの頃、今でいう学習障害だったそうです。

そんなトットちゃんを、じょうずに育んだ先生方は、息子がお世話になったすべての先生と重なります。

福山くんは、明るく楽しくというよりも、彼の精いっぱいの誠実さを込めて、バイオリンの演奏とともに、ろうろうと真面目に歌い上げていきます。

彼の歌は、力強くまっすぐに、息子たちを肯定しているように感じられました。

彼はミュージシャンとして、これまでより、ひとまわり大きくなったのではないでしょうか。

 

今年も、私の中にたくさんの歌を取り込んでは、人生の彩を感じてきました。

音楽は、心のビタミン。それがなかったら、心は干からびて体まで栄養失調になってしまいそう。

今年最後に、思いがけず、すばらしい歌と出会いました。

 

大晦日の紅白でも、彼はこの歌を歌ってくれます。

皆さまも、ぜひぜひお聴きくださいね。

そして、自閉症児の母の心にシンクロしてくださったら、うれしいかぎりです。


 

この一年、なかなか時間がとれず、気持ちの余裕もなく、思うように書けませんでした。書きたいことをずいぶん置き去りにしてきました。

そんな私のブログに、わざわざ読みに来てくださって、本当にどうもありがとうございました。

どうぞよいお年をお迎えください。




自閉症児の母として(45):50周年に感謝です2017年09月18日



先日、社会福祉法人「嬉泉(きせん)」の50周年のお祝いに招待されました。

自閉症の長男が3歳の時からお世話になってきたところで、私の子育て人生を全面的に支えてくれたと言っても過言ではありません。

今でも、30歳を過ぎた息子とともに、お世話になることもあります。この先もずっと、関わりを切らすことはないでしょう。

 

転勤で静岡に住んでいるとき、2歳半の長男は自閉症と診断されました。

当時、NHKの教育テレビで放映されていた自閉症の療育番組で、嬉泉が運営する東京都世田谷区の施設の様子を見たのです。

ここに行こう。ここに行けば、きっと治る……。

そう思って、翌年の春には転勤を希望して東京に戻ってきました。

3歳からの幼稚園代わりに、テレビで見た「めばえ学園」に通い始めました。その園長先生からは母親もたくさんのことを教わりました。

「子どもの犠牲にならないで。自分の人生も大事にしてね」

今でも私の座右の銘です。

 


先生は、すでに80歳とのこと。この写真を見て、「あらやだ、おばあさんに撮れてる」と言われましたが、なんのなんの。相変わらず歯切れよい話しっぷりも、背すじのピンと伸びたところも、とてもお年には見えませんでした。

 

 

嬉泉の誕生には、感動的なエピソードがあったのです。会のはじめに挨拶された2代目理事長が、それを語ってくれました。



 

昭和40年ごろ、日本の自閉症研究の草分けともいえる石井哲夫先生が、日本女子体育大学で児童心理学を講義されていた。その中で、「まだ日本には自閉症児のための施設がない。ぜひ、広げていきたい」と述べたそうです。その講義を受けていたのが、理事長の妹さん。家に帰って父上に石井先生のことを話したところ、父上は関心を示し、石井先生から直接話を聞きました。そして、先生の情熱に感銘を受け、私財をなげうって支援することを決意されたのです。こうして財団が設立され、翌年には社会福祉法人となり、父上が初代理事長に就任しました。

彼は、戦後おせんべい屋さんで財を成したのですが、日頃から私利私欲はなく、収益はすべて世のため人のために使う、という考えの持ち主だったそうです。お子さんたちにも「美田」は残さなかったとか。

50年前に、石井先生の受容的交流方法という愛情あふれる自閉症の療育方法と、初代理事長の稀有な福祉の心とが出会いをはたした。そして嬉泉が誕生したというわけなのです。

日本の自閉症児の家族にとって、なんとありがたい出会いだったでしょうか。

 

さらに、2代目理事長のスピーチは続きます。

「石井先生初めたくさんの先生方、各方面で関わってくださった方がたに支えられて、50年目を迎えることができました。でも、忘れてはならないのは、それぞれの施設で、毎日食事を作ったり、お掃除をしたりと、裏方で働く方がたのおかげだということです」

そう言って締めくくられました。

組織のトップが、組織の底辺のことまで気にかけている。なかなかできることではありません。温かい気持ちになり、いいお話を聞いたと思いました。

 

現在、嬉泉は、東京と千葉県にいくつもの事業所や施設を構え、大きな組織になりました。地域にも根を下ろし、療育・相談・保育という三つの柱で、支援を必要とする人々のために活動を展開しています。

初代理事長はとうに亡くなり、石井先生も3年前に他界されましたが、若い後継者の方がたが、嬉泉をしっかりと受け継いでいくことでしょう。



 

ところで、この日の会場は、ホテルオークラ東京のアスコットホール。200名近い招待客は、その後、中華料理をごちそうになりました。

余談ながら、奇しくも35年前、このホテルの金屏風の前に座ったのは、ほかならぬ花嫁姿の私。時の流れに感無量のひとときでもありました。

 

 



自閉症児の母として(44):ちょっといい話2017年08月14日

 



今日は、精神科の主治医のところで、安定剤を処方してもらってきました。月に一度、4週間分の薬をお願いしています。そして、その処方箋はいつも、友人M子が務める近所の薬局に持っていきます。

受付に処方箋を出してしばらく待っていると、「お薬ができました」と名前を呼んでくれたのは、ほかならぬM子でした。薬や代金の受け渡しをしながらも、小声でおしゃべりをしてしまいます。M子とは子どもたちが幼いころから家族ぐるみのお付き合いをしてきました。私にはかけがえのない友人の一人です。

「こないだ、モト君を駅で見かけたわよ。電車の発車時刻が書かれてなくて、モト君、隣にいた女の人に、『電車、遅れてるよね』って聞いたの。そしたらその人も、『そうね、遅れてるね』って、ちゃんと答えてくれてね。私たちと同じぐらいのオバサンで、モト君のことをわかってくれたんだと思うけど、いい雰囲気だった」

そんなうれしい報告をしてくれました。ありがたいことです。

その女性にはもちろん、M子にも感謝です。

 

じつは、10数年も前、モトが中学生の頃、隣町の養護学校までリュックを背負って電車通学をしていました。ある日のこと、車内でサラリーマン風の男性がモトに向かって、リュックがじゃまだから下ろしなさいと注意をしました。ところが、息子は自分のことを言われているとは気づかず、知らん顔をしていたようで、ホームに降りると、男性は怒りだすし、息子は大きななりをして泣きだす始末。ホームに人だかりができ始めました。駅員もやって来ました。

たまたまそこに通りかかったのが、M子だったのです。

「あら、モト君じゃないの」と、事情を話し、その場をさばいてくれたおかげで、事なきを得たのでした。

 

渡る世間に鬼はなし。

M子だけではありません。

「今日、モト君、見かけたよ。いつも走ってるね」

「モト君、いつも同じ時刻の電車に乗って、同じ場所に立ってますよ」

地元の友人たちが、たびたびそんな報告をしてくれます。

皆さま、本当にありがとうございます。

社会に見守られて、彼は生きていけるのです。








 


自閉症児の母として(43):グループホームを見学して2017年08月01日


息子は、昨年9月に30歳になりました。

30代からは、親元を離れて生活することにチャレンジさせよう、と考えています。チャレンジ失敗となっても、いつでも帰って来られるわが家があるうちに。

私たち夫婦は高齢者の仲間入りも近い。息子も、いつまでも子ども扱いのまま家庭で過ごしていては、いざというときに困るのは息子本人です。親亡きあとの暮らしを考えるのに、早すぎることはありません。

グループホームで暮らすことを、この30代の目標するつもりです。

 

障害者のためのグループホームでは、数名の障害者が、スタッフの支援を受けながら共同生活をします。アパートやマンションを利用したり、空き家を再利用したりして運営されているようです。

基本的には個人の生き方が尊重され、個室を持ち、昼間は各自そこから通勤する。週末には自宅に帰るなどして、自由に過ごします。

グループホームの数は増えているそうですが、希望者も多く、すぐに適当な場所が見つかるとは限りません。まずは見学を、と申し出ておくと、「近くに空きが出ました」と、さっそく連絡が入りました。知的障害を持つ成人男性6名が利用するホームとのこと。とりあえず私ひとりで見学に出かけました。

 

自宅からバスで15分。まだ新しそうな2階建て。20畳ほどのLDKには、オープンキッチンと6人掛けのテーブル、テレビなどが置いてありました。

そこにいた70歳前後の男性が、どうやらオーナーのようです。

「タバコは吸いませんか」

テーブルに着くなり、そう聞かれました。

「火事が怖いので、タバコをやる人はお断りなんです」

たしかに、タバコの火は火災の原因になりますね。カーテンも壁紙も、燃えにくい素材でできているそうです。

管理責任者の女性が、そのほかにも詳しい説明をしてくれました。何事も、時間や順番などのルールを決めて、それを守ってもらう。食事はスタッフが作る。個室での過ごし方は自由。ただし部屋の行き来は禁止……などなど、利用者への配慮が感じられました。

その後、家の中を見せてもらいました。最初からグループホームを目的に新築したとのことで、至れり尽くせり。リビングの南側にサンルームがあり、洗濯機が3台、物干しざおも6本そろっています。洗面台もトイレも3つ。個室には、ベッド、クーラー、広いクローゼットが付いており、テレビやパソコン利用のための設備もあります。

ルールを守るのは、几帳面な自閉症者の得意とするところ。息子でもやっていけそうです。管理もしっかりしているし、室内もきれい。前向きに考えてみようか……と思いました。

 

ところが、仮入居の話になって、雲行きが変わりました。

「1ヵ月間、体験入居してもらいます。その間、休日に自宅に戻ってもいいのですが、泊まってくるのはダメ。外泊は一切禁止です。他の利用者やスタッフとなじんで、お互いに理解し合うための期間ですから、少しは我慢をしなくては。テレビもリビングでみんなと一緒に見ます。パソコンは持ち込み禁止。のめり込んでしまう人もいるので……」

これじゃ、まるで軍隊です。一気に気持ちが冷めました。

息子は毎日パソコンに向かいます。インターネットでスポーツの試合結果を調べたり、Jリーグのデータを打ち込んだり、ゲームや音楽のさまざまな情報を得たり……と、彼の趣味や生活に欠かせない存在です。コミュニケーションが難しい自閉症者にとって、パソコンが「友達」という人も少なくありません。乱暴な言い方をすれば、生きるよすがともいえるパソコンを1ヵ月も取り上げてしまうことは、目の不自由な人から白いつえを取り上げるようなものです。

自閉症に限らず、知的障害の人々にとっては、最低限の息抜きが保障されて初めて、新しい環境に適応する努力ができるのではないでしょうか。健常者だって同じでしょうに。家に泊まってリフレッシュしてくることに何の支障があるのでしょう。パソコンにのめり込んで困るのなら、「一日一時間だけ」というようなルールを作ればいいのです。なぜ、体験入居の締め付けにそれほどこだわるのでしょう。個性を消して暮らせるなら、障害者支援など必要ないわけで、そもそもそれができないことが障害なのです。

オーナーはパソコンになじめないアナログ世代? スパルタ教育をよしとする昔気質な人? 百歩譲ったとしても、私には納得できませんでした。障害者を支援してやる――そんなおごりが感じられて怖くなりました。

 

後日、この一件を主治医の精神科のドクターに話しました。地域の障害者支援に詳しく、頼りにしている先生です。

「そりゃ話になりませんよ。世の中の支援の流れに逆行しています。こちらからお断りだ」と一笑に付されました。

グループホームは、入所施設ほど規定が厳しくないので、経営者によって、それぞれに特色があるそうです。

「この件は、グループホームを監督する部署に伝えておきますね。諦めないで次を探しましょう!」

そうですね、もっと自閉症に理解のあるホームがきっとあるはずです。

先生の言葉で、やっともやもやが収まって、次へ進む気持ちになれました。


 

 

 


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