1200字のエッセイ: ユーミンと私の50年 ― 2023年01月19日
ユーミンと私の50年
昨年来、ユーミン50周年の記事や広告が新聞に踊っている。
もう半世紀にもなるのだ……と、ある記憶がよみがえる。
彼女がデビューして間もない頃、私が通う大学の文化祭で、彼女のコンサートが開催されることになった。彼女の婚約者の松任谷正隆氏が、大学の卒業生だったからだ。まだ現役の学生で、ユーミンファンだった私たちサークル仲間は、コンサートの実行委員とかけあい、無料で見せてもらう代わりに、出演者の接待係を仰せつかった。
コンサートは古い校舎のホールで行われ、殺風景なステージで、彼女はつばの広い帽子をかぶり、当時流行りのパンタロンスーツという衣装で、ピアノを弾いて歌った。あぶなっかしい歌いっぷりは、レコードで聴いていたのと変わらなかった。
ユーミンほか、ハイファイセットなどの出演者とスタッフのために、私たちは楽屋で紅茶を入れてもてなす。屈強な男子学生が、校内をボディーガードのように連れて歩く。握手もサインもなし。
同年代のユーミンに対して有名人だという緊張感はなかったけれど、ティーカップを洗いながら、なぜかふと、彼女は私たちとは別格の女王様のように感じられたものだ。
そして、半世紀が過ぎた。今なお、ユーミンは正真正銘の女王様であり続けている。あの時、こっそりサインの1枚でももらっておけばよかった……。
彼女は、想像できないほどの努力をしてきたことだろう。でも、それを感じさせないところが、女王様らしいかもしれない。
私はといえば、松任谷氏と同じ大学卒の男性と結婚したけれど、ユーミンとは違って3人の子を授かった。子育てをしながら、仕事も、趣味も、それなりにがんばってきたつもりだ。
非凡と平凡。たしかに違いは大きい。
しかし、かけがえのないそれぞれの命を燃やして生きてきた50年という歳月に、ユーミンと私、何の違いもないのだ。それだけは胸を張って言える。
▲当時、たまにレコードを買うこともあったけれど、たいてい貸しレコード店で借りてきてはカセットテープにダビングして聴いた。そのカセットケースには、曲のタイトルを書き、さらに曲のイメージの絵や写真を雑誌から切り取って挟み込んで、カスタマイズしたものだ。
もうテープを再生する機器も手元にはない。それでも、レコード以上に捨てがたいテープたちなのである。
800字のエッセイ:「おめでとうございます!」 ― 2023年01月09日
昨年の春のこと、コロナが下火になったころ、友人たちと三島に1泊し、三島大社を訪れた。
社殿のそばに、錦の打掛姿の新婦と、紋付き袴の新郎がいた。でも結婚式ではなさそうだ。二人のほかに、地味なスタイルのカメラマンと助手らしき女性だけ。ああ、前撮りだ。
6年ほど前、娘夫婦も結婚披露宴とは別の日に、都内の公園で和装姿の写真を撮ってもらった。紅葉真っ盛りの季節で、赤い着物の娘はもみじの精のようだった。
通りすがりの人たちから声がかかる。
「きれいですね。おめでとうございます」
娘の幸せを願ってくれているのだ。「ありがとうございます」と答えながら、思わず涙ぐんだものだった。
その時から、どこかで新郎新婦に出会ったら私も祝福の言葉をかけてあげよう、と思っていた。
三島大社の慣れない衣装の二人は緊張しながらも、幸せそうに見えた。
「長引くコロナで結婚式もできなかったのね、きっと」
「やっと披露宴ができるようになったかな」
「記念写真だけですませるのかもね」
私たちオバサン組は、コロナ禍に愛をはぐくんできた見知らぬカップルについて、あれこれおせっかいな詮索に余念がない。
言葉をかけそびれているうちに、彼らは場所を替えるのか、どこかへ行ってしまった。
ホテルに戻ってくると、フロントにも和装の新郎新婦がいる。カウンターの背後の大きなガラス窓越しに、富士山がよく見えるのだ。
「あら、富士山をバックに前撮りね?」
今度こそチャンスを逃すまいと、去りぎわの新郎に声をかけた。
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます」と、事務的な返事。
すかさず隣にいた友人に突っつかれた。
「本物じゃないってば。モデルの撮影よ」
「……あ!」
▲このホテル14階の大浴場からの眺め。こんなふうに新幹線のホームの向こうに街が広がり、その向こうに富士山が姿を見せています。
ちなみに、今年のお正月には、富士山の夢を2回も見ました。
初夢のベストスリーは「一富士、二鷹、三なすび」。
いい年になりそうです。さてさて……?
新年のご挨拶 ― 2023年01月04日
ブログを覗いてくださっている皆さま、明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
いただいた年賀状で、思いがけない方、もう何年も会っていない方がブログを読んでくださっていることを知って、感激しています。ありがとうございます。
去年は喪中でしたので、新年の祝辞は控えましたが、2021年を振り返って22年の抱負を述べたのが、同じ1月4日でした。
さて今日も、2022年を振り返ってみますと、なんといっても、国内を旅したことと医者にかかったこと、その2本立てでした。
まず1本目。コロナ感染の波をかいくぐっては、ちょこちょこと近場の1泊旅行から、長くても3泊まで。数えたら10回。なんとまあよく出かけたことかと思います。
それぞれに記憶に残る旅でしたから、エッセイをつづり、ブログに写真とともにアップしていきたいと思いつつも、次の旅の準備や予習をしなくては……という具合で、なかなか時間が取れず、ブログがはかどりませんでした。
楽しみにしてくださっている方、ごめんなさい。今年もがんばって続きを書いていきます。
2本目は、前年に母を見送った疲れがどっと出たのか、体のあちこちに不具合が現れました。こちらも数えてみると、年間50回近くあれこれ通院をしています。
気がつくと、利き腕の左肩が痛んで、腕が上がらなくなりました。背中にも回りません。定評のある肩関節専門のドクターが、「五十肩というのは、日本だけの通称でね、本当は凍結肩というんです。これなら世界中どこへ行っても通用しますよ」と、60代の患者に慰めのような説明をしてくれました。
凍結肩は繰り返すそうで、私も3回目です。たしかに凝り固まってしまったような、ロックがかかったような状態が長引き、リハビリに通い続けました。
さらにそのクリニックで出会ったのが、骨粗しょう症専門のドクター。紹介してくれた大学病院での精密検査で、副甲状腺の異変が見つかり、来月には手術する運びと相成りました。
それについては前回、昨年12月20日に詳しく書いたとおりです。
今年はここから始まります(ドラッグストアの名前みたいですね)。私の健康を取り戻す年になるでしょう。
コロナ禍も3年がたちました。
ようやく世の中の行動制限が解除され、マスク以外は3年前に戻ったような様相を呈しています。
しかし、3年間に被った目に見えない痛手はけっして軽くはないと思うのです。高齢者の立場からすれば、それは取り戻すことが難しいあまりに長い時間でした。
マスクを外して鏡を見れば、3年分老けた顔。ステイホームのおかげで弱った足腰……。おしもおされもせぬ年寄り感が押し寄せます。
いえいえ、マイナス面ばかりではないですね。
エッセイ仲間とリモートを活用して続けてきた勉強会は、外出するリスクも面倒もなく、時間節約にもなっています。作品を書き上げる励みにもなり、合評はもちろん、その後のおしゃべりもまた、えがたい情報交換です。
というわけで、ウィズコロナ&ウィズエッセイをモットーに、今年もまた、健康回復の治療と、コロナ感染の合間を縫って、あちらこちらに出かけていきたいと思います。そして、旅の話、本や映画の感想、自閉症の息子の話……などなど、書き留めていきます。
皆さま、お暇な折には、どうぞ覗きにいらしてください。
よろしくお願いいたします。
ご報告のためのエッセイ:「未来のために、今」 ― 2022年12月20日
病気の話は暗くなりがち。できればエッセイに書いたりブログに載せたりしたくない。ずっとそう思っていました。
でも、今回ばかりは、避けられません。治療のために、ご迷惑をおかけすることになるからです。きちんと説明ができるように、エッセイにしたためてみました。
ご理解いただければ幸いです。
還暦を過ぎた頃、健康診断で骨密度不足を指摘された。骨粗しょう症である。
治療を始めたが、月に一度の飲み薬は副反応で熱が出た。サプリに切り替えてウォーキングやジム通いを続けても、骨密度は一向に改善しない。それでも医師は、
「加齢とともに下降線をたどるのが普通です。減らないだけで良しとしましょう」と、計測のたびに繰り返した。
今年の春、人間ドックで高カルシウム血症だと言われた。骨密度が低いのは骨からカルシウムが溶け出しているからで、副甲状腺の異常が疑われるとのこと。
寝耳に水だった。副甲状腺がどこにあってどんな役割をしているのかも知らなかった。
その後、骨粗しょう症専門のドクターに診てもらった。骨密度47パーセントという低さに驚き、すぐ大学病院の内分泌内科に紹介状を書いてくれた。
副甲状腺は、喉の下に四つほど米粒大のものが並んでいる。そこから出るホルモンは、体内のカルシウムのバランスを調えるのだ。ところが、このホルモンが過剰に分泌されると骨のカルシウムをどんどん放出してしまう。副甲状腺機能亢進症と呼ばれ、骨密度の低さはそこに原因があるらしい。
病院ではたくさんの検査を受けた。喉元に超音波を当てると、4つのうちの1つが大きく腫れていることがわかった。さらに精度の高いシンチグラムという検査では、微量の放射性物質を注射して映像化し、腺腫を特定する。その腫瘍が悪さをしているのだ。
「4つもあるんだから、1つ取ってしまえばいいんです」と、担当医はこともなげに言う。私は若い頃に、2つの卵巣のうち1つを摘出して一命をとりとめた。そのあとでも、ちゃんと3人の子を授かっている。人間の体はうまくできているのだ。
「何が原因で、腺腫ができたんでしょうか」
「それがわかればノーベル賞ものですよ。がんと同じです」
この腺腫のがんの確率はほんの1パーセント。映像を見てもまず良性だと聞いて、安心する。
骨折したこともなければ、何の自覚症状もない。それでも喉を切り裂く手術を受けるべきか。迷いはあった。
女優のアンジェリーナ・ジョリーは、乳がんの遺伝子を持ち、発症確率が高いので、両方の乳房を切除したという。そこまでの勇気は必要ない。
そして、万一手術の後、骨密度増加の効果が出なかったとしても、手術をしないまま、びくびくと行動にセーブをかけたり、ましてや手を突いただけでポキッ、くしゃみしただけでポキッとなったりするよりはずっといい。後悔だけはしたくない。
医学を信頼して手術を決めた。
病院に通い始めて半年、ようやく本格的な治療が始まる。
手術は来年2月13日に決まった。なんと、昨年亡くなった母の、生きていれば100歳の誕生日に当たる。
母の長寿を受け継ぐのだ。未来は明るいにちがいない。
私のサッカー観戦物語 ― 2022年12月09日
2022年、日本ではサッカーワールドカップがいつにない盛り上がりを見せた。日本代表チームがEグループのリーグ戦で、優勝経験のあるドイツとスペインの強敵2チームを、見事に倒してしまったのだから。
地元川崎でも、鷺沼サッカークラブから輩出した選手が、4人も代表に選ばれて、鷺沼の交差点には、「鷺沼から世界へ!」という青い垂れ幕が光っていた。
そして、いよいよ決勝トーナメントの初戦、クロアチアとの対決に臨んだのだった。
私の脳裏をよぎったのは、22年前のスペイン戦だった。シドニー五輪で見たスペイン対カメルーンのサッカー決勝戦だ。
まだ13歳だった自閉症の長男が、「僕の夢はシドニーオリンピックを見に行くことです」と卒業アルバムに書いたのを見て、彼を連れてオリンピック観戦ツアーに参加したのである。観戦種目の一つに、サッカー決勝戦があった。ツアーとはいえ自力で移動し、メンバーたちの席もばらばらだ。サッカーの知識などほとんど持ち合わせないのに、今のように便利なスマホもない時代。目の前で生の戦いが始まっても、実況アナウンスも解説もない。ところがラッキーなことに、隣の席に一人旅の日本人青年が座った。彼はサッカーに詳しく、笛が鳴ったり試合が中断したりするたびに、わかりやすく説明してくれた。
後方の席にはスペインの旗を掲げた一団がいて、「エスパーニャア!」と大声で応援している。しかし、試合運びがスペイン優勢に傾くと、どよめくようなブーイングがスタジアムに湧き起こる。観客のほとんどは、カメルーンを応援しているようだ。
「強い国じゃないのに、ここまで来たからでしょう」と青年は言った。
カメルーンはその応援を力にして、PK戦のすえ、優勝してしまったのだった。
2年後の2002年、日韓W杯が開催される。Jリーグファンの長男のために、抽選に応募して、日本で行われる決勝トーナメントの観戦チケットを手に入れる。その日を楽しみにしていた。
開催国日本は、予選を戦わずにグループリーグから参戦となる。忘れもしない6月4日の夜、初戦の相手は強国ベルギー。格上のチーム相手に、日本は2対2で引き分け、勝ち点1を得た。ビール片手にテレビの前で応援をしていたわが家も、すっかり浮かれ気分になった。
とその時、父のいる病院から電話がかかった。
「もう間に合わないかもしれません」
長いこと入院し、覚悟はしていたが、昼間見舞ったときはいつもと変わらない様子だったから、安心していたのだ。母とタクシーで病院に駆け付けると、父はすでに霊安室に安置されていた。
かくして、サッカーどころではなくなった。せっかくゲットした試合のチケットも、サッカー好きの友人に譲った。息子のおみやげにと買ってきてくれたのは、クロアチアのユニフォーム。赤いチェック柄が鮮やかで素敵だった。まさか20年後の決勝トーナメントの初戦相手になろうとは、想像もしなかった……。
今回の観戦は、おみやげのユニフォームをお尻に敷いて座ろうか、裏返しに着て応援しようか、などと悩んだ。
もし、クロアチアの相手国が日本ではなかったら、私はまちがいなくウェアを着て応援しただろう。
コロナのパンデミックが起きる直前、2019年の秋、クロアチアを旅行した。この国は、第二次世界大戦後にチトー大統領が打ち立てたユーゴスラビア社会主義連邦に統合されたのだが、やがて大統領が亡くなると、あちこちで内紛が勃発し、ユーゴは崩壊していく。クロアチアにも独立運動が起こり、1991年、独立を宣言する。その後も旧ユーゴ軍の砲撃を受け、多くの死者が出て、世界遺産も危機に陥ったという。初めに訪れたドブロブニクは、「アドリア海の真珠」と言われるほど美しい街だったが、ここにも内戦の傷痕が残っていた。
ちょうど独立記念日には、国立自然公園まで出かけた。片道2時間の送迎を依頼した車のドライバーは、30代ぐらいのチョビ髭の若者。無口だったが、日本からのお菓子をプレゼントすると照れるように笑った。
「今日は独立記念日で祝日なんでしょう?」と問いかけても、
「だからって、僕には関係ない」と答えた。何もめでたくないよ。そんな印象を受けた。戦争で被った有形無形の傷が、まだこの国に暗い影を落としているように思える。車窓からは、サッカーで遊ぶ子どもたちが見えた。
先日の新聞に、クロアチアの中心的選手ルカ・モドリッチの生い立ちについて書かれていた。内戦の爆撃で、彼の大好きな祖父も犠牲になったという。貧しい暮らしの中でも、両親は彼をサッカー選手に育て上げたそうだ。
不幸な歴史が、クロアチア代表の精神的な強さを培ってきたのだと思う。前回の大会では準優勝に輝いた。
さて、日本との一戦はどうなることか。少し複雑な思いで、夜中遅くまで実況中継を見届けた。
そして4年後、さらに成長して世界に挑んでほしい。こんどこそ、新しい景色を見せてくれると信じている。
旅のエッセイ:ルーツを訪ねて 前編 ― 2022年11月24日
ルーツを訪ねて
「ひとみが生まれたのは、神戸のすずらん台という所。すごく田舎だったわ」
私の生まれた土地について、母から聞いていたのはそれだけだった。父の転勤で神戸に住んだのだが、生後半年で東京に移ってきたので、記憶はまったくない。ほかにも聞いたかもしれないが、覚えているのはそれだけだ。
昨年母が亡くなった。今になって、もっといろいろと聞いておけばよかった、話をすればよかったという思いが募ってくる。
すずらん台に行ってみよう。大阪で開催されるコンサートを聴きに行くついでに、神戸まで足を伸ばしてみよう。そうだ、ルーツを探す旅だ。……ふと思い立ったのだった。
神戸は新婚の頃に夫と訪れて以来40年ぶりで、右も左もわからない。とはいえ、今は交通系アプリや地図さえあれば、ひとり旅だろうと安心してどこへでも行けるのである。
コンサートの翌朝、大阪のホテルを出て、JRで神戸へ。車窓からは、ビルの向こうに六甲山の緑が間近に迫って見える。東京界隈では見慣れない景色だ。
午前中に神戸三宮のホテルに到着。荷物を預け、市営地下鉄に乗る。途中の谷上駅で神鉄有馬線に乗り換え、いよいよ目指すは鈴蘭台駅だ。降り出しそうな曇天の下、電車は北へ向かう。
高校生の時、大阪出身の同級生に、
「すずらん台って知ってる? 今でも田舎なの?」と尋ねたことがある。
「ベッドタウンとして開発されて、人気があるよ」と聞いて、なぜかうれしかった。
しかし、電車はうっそうとした山の緑に飲み込まれるように走っていく。トンネルを出たり入ったり。ちょっと不安がよぎる。
トンネルを抜けてたどり着いた鈴蘭台駅は、新しそうなビルの中だった。上の階は神戸市北区の区役所になっている。外へ出てビルを見上げると、ビルの壁面には緑の植物が植えてある。駅前のバスロータリーにも、手入れの行き届いた花壇がたくさん並んでいる。東京近郊のどこかの町にありそうな、エコでこぎれいな今どきの〈駅と区役所のコラボ〉といった感じだ。
区役所に入り、地域の歴史が知りたい、と尋ねてみたが、若い職員は首をかしげるばかり。でも、現在の北区の様子がよくわかった。この地域は、神戸の軽井沢とも言われているそうで、夏は涼しく、有名な有馬温泉もある。住宅地もあり、里山には農園があり、牧場や養蜂場があり、ビール工場まであり、土地の食材を使った古民家の食堂もあり……と、かつての「すごく田舎」は様変わりして、楽しめるエリアとなっているらしい。
「神戸市北区で休日さんぽ」というパンフレットをもらった。カラフルで写真もたくさん。地域の魅力があふれている。次回はこれを片手に、誰かと遊びに来たい、と思った。
小雨が降り出した。傘をさして、駅の近くを歩く。平日とはいえ、人の往来は少ない。チェーン店のイタリアンレストランや調剤薬局など、わが町にあるのと同じで、親しみを感じてひとりで笑った。
「のぼり屋」という地元のお店らしい和菓子屋さんがあったので、入ってみた。季節の栗を使った最中やお饅頭が美味しそう。
店の一角にモノクロの写真が並べてある。古い歴史がありそうだ。平屋の店舗の写真には、「昭和28年創業当時」と説明が添えてあった。
なんと、私の生まれる前の年だ。だったら、甘党の母はきっとこの店に立ち寄ったのではないだろうか。私の筋金入りの甘党も、この店にルーツがあるにちがいない。想像が膨らんで、やっと旅の目的が少しだけ果たせたような気分になった。
私のほかにお客さんもいなかったので、50代ぐらいの女性の店員さんに声をかけた。じつは……と、私が鈴蘭台にやって来たわけを聞いてもらった。
「私が生まれて最初に食べたあんこは、のぼり屋さんのお饅頭かもしれませんね」
「あら、きっとそうですよ」
ふたりで笑った。旅先で見知らぬ人とおしゃべり。ひとり旅はこれが楽しい。母はよく、そんな私を、「すぐお友達になっちゃうのね」とあきれたものだった。
店員さんの話では、創業当時の店は町内の別の場所にあったそうで、この店舗は平成6年の大震災の後に、ここに新しく建てられたのだという。
鈴蘭台にちなんで鈴音(すずね)最中という名の、可愛らしい鈴の形の和菓子をおみやげに買って、店をあとにした。
午後からはオシャレな神戸、旧居留地の辺りを散策して、夕方から港の花火見物へ。
コロナ禍で3年ぶりに開催されるのは、5日間にわたって毎晩10分間だけという規模の小さな打上げ花火だ。それでも、生まれ故郷の神戸で、たったひとりで傘をさしながら見上げる花火が、とても美しくて切なくて、涙が出そうだった。
(後編に続く)
☆ 旅のフォト ☆
▼大阪で開催されるコンサートというのは、藤井風くんのスタジアムライブ。ガンバ大阪の本拠地、吹田パナソニックスタジアムで、初めての開催だそうです。半端なく♪♡でした。
▼神鉄有馬線は、森の深い緑に飲み込まれるかのように走ります。
ビルの中の鈴蘭台駅は想定外。▼
改札を出て最初に目に飛び込んできたのは、わが家から徒歩1分にもあるレストランの看板。あら、ここにもできたのね、と思わず苦笑い。
▼駅の外観。ビルの壁面に植物。
▼のぼり屋。
▼鈴音最中。
▼神戸開港の歴史を物語る地域は、レトロモダンなオシャレな街。旧居留地38番館。
パティスリー トゥーストゥースで、ひとりランチ。スパークリングワインのミニボトルも注文して、デザートにはコーヒーとエクレアも。▼
ライトアップされた大丸神戸店。▼
小雨に煙る夜のメリケンパークで打ち上げられた花火。動画で撮ったのに、このブログではアップできなくて残念です。▼
旅のフォトアルバム:京都の旅のハイライト ― 2022年10月26日
前回の投稿記事が9月24日。もう1ヵ月以上もご無沙汰でした。
どうかしたのかなと覗いて心配してくださった皆さま、どうもありがとうございます。〈旅の秋〉を忙しく満喫中です。
前回の投稿を書いた翌週、京都に行きました。
テーマは「秋の味覚を楽しむ」。
と言いながら、洋菓子のモンブラン。
抹茶のお菓子で有名な、マールブランシュの本店で、この季節ならではの栗を使ったプレミアムなモンブランをいただきました。
まず、3種類のブランデーから一つチョイスします。味に詳しくはないので、いちばん高そうなVSOPにしました。
それを目の前で刻んだ栗に混ぜ、さらにマロンクリームを絞ってくれるのです。(動画でお見せできないのが残念!)
お味のほどは、言わずもがな。ほっぺたを落としてきました。
夜には、この季節最後の川床料理を堪能しました。
この日は、昼間は暑いほどだったけれど、京都でも奥深い貴船神社の辺りは涼しく、さらに川の流れるその上に床を設けているのですから、天然のクーラーです。
料理には氷の器が使われていたり、盆の上に塩を粉にして流れる水の絵を描き、焼いた鮎を泳がせたりと、涼を呼ぶ演出も見事です。
クーラーのない時代から昔の人たちは、こんなふうに涼しさを味わう工夫をしていたのだ、と実感しました。
終盤になると、熱燗も冷え、ひざ掛けをお借りしたほどでしたが、こちらのお味も舌鼓を打ちました。
さて、今月の旅は二回。
すでに大阪・神戸の旅は終わり、もう一つ、瀬戸内海の直島へ。
明日から、行ってきま~す!
おススメの本『赤と青とエスキース』 ― 2022年09月24日
1月の末に図書館で予約した本が、9月になってようやく順番が回ってきました。人気があるようです。もう、なぜ予約したのかも忘れましたが、とにかく何かの情報で、おもしろそうな小説だと思ったのでしょう。
青山美智子さんという著者の名前も知りませんでした。
物語は、プロローグに始まって、4つの章があり、エピローグで終わる構成。
各章には、赤色と青色をイメージするようなタイトルが付けられています。読み始めるうちに、各章は別べつの話のようで、じつは何かで繋がっているのだ、と気づきます。
エスキースとは、本番の絵を描く前の、いわば下絵のようなものだということもわかってきます。
少しずつ、私がこの本を読みたいと思った理由を思い出しました。絵にまつわる物語だったからです。
私は子どものころには漫画家になりたいと思ったくらい、絵を描くことが好きでした。高校の授業で油絵を始め、大学では4年間美術部に所属して、描き続けました。美術史の勉強はしましたが、絵画制作を専門的に学んだことはなく、趣味として楽しむだけで満足でした。
今では絵は描かず、絵は見て楽しむもの。アートにかかわる映画や物語も大好きなのです。
この小説の中では、絵を学んでいる若い人たちが恋をしたり、画家を目指す若者が新しい絵に挑戦したり、若手漫画家の才能が認められたり……と、次々と展開する各章それぞれの物語に、涙が出そうになります。懐かしい気持ちにもなります。
そして、30年以上におよぶ歳月が流れていくのですが……。
最後にエピローグを読み終えると、まるで赤と青のリボンの両端が結ばれて、愛しい物語をひとつ、プレゼントされたような気持ちになりました。プレゼントは、たくさんの想いを運んできてくれました。
私も若い時にきちんと絵の勉強をしていたら、どうなっただろう。凡人並みの才能が花開くほどの奇跡は起こらなかっただろうけれど……と、歩むことはなかった別の人生に、空想が膨らみます。
大学卒業後、大手の画廊の採用試験にもパスしたのに、そちらには進まなかった。画廊という職業には今でも憧れがあります。
せめて、クローゼットの奥に眠っている若かりし頃の絵を、素敵な額縁に収めて飾ってみようか……とも思ったりします。
もっと現実的に、図書館に返却した本を、今度は本屋さんに買いに行こう。もう一度読み返したい。そして、いつでもそばに置いておきたい。
それほど、この本が好きになりました。
さらに、ネタバレを避けるために詳しくは言えませんが、私の個人的な興味を離れても、小説としてのストーリー展開がよくできていると思います。
そして、もうひとつ。
この本のほとんどのページを、私はクリニックの待合室で読みました。
おかげで、精密検査の結果には喜べなかったけれど、さほど落ち込まずに済んで、救われました。タイムリーに私を支えてくれたのです。
絵の好きな方、小説が好きな方、そして明るい希望が必要な方に、おススメの一冊です。
女王陛下の葬儀 ― 2022年09月20日
昨晩は、エリザベス女王の葬儀を見続けました。
もう40年以上前ですが、半年ほどロンドンで英語学校に通っていたことがあります。
学校のお仲間とウェールズ地方を旅行した時に、女王陛下をお見かけしました。帽子もコートもピンクの装いでした。
誰かが「ピンクパンサーみたい!」と言うので、私たちは笑いました。当時人気のあったアニメのキャラクター。それほど親しみを持っていたのでしょう。
その時、写真を撮ったはずだけれど、今は押し入れの奥にしまい込まれており、もっか肩痛持ちの私、探すのは諦めました。
手元にある女王陛下は、この50ポンド紙幣。
これは2008年、娘とロンドンに行く時に両替したもので、当時1ポンドが200円でしたから、約1万円なり。というわけで、日本の壱万円札と並べてみました。
今後、紙幣の女王も、切手の女王も、少しずつチャールズ国王に交代していくとのこと。ちょっと残念です。このお札は、次のイギリス旅行で使おうと思っていたのですが、大事にしまっておくことにします。
遠い国の私でさえ、遠い昔の思い出を忘れずにいるのですから、ましてイギリス国民にとって、女王陛下は身近で特別な存在であり、悲しみは深いことでしょう。
最後のお別れをするために、ウェストミンスター宮殿まで何時間もかけて行列に並んだという国民の気持ちが、よくわかります。これこそが本当の国葬だと思いました。
女王は、天国のフィリップ殿下のおそばにいらしたのです。悲しいけれど、安らかな気持ちでお見送りするしかありませんね。
イギリスという大国を70年の長きにわたって統治してきた偉大な君主であり、国民に慕われたチャーミングでやさしい母のようなエリザベス女王に、改めて敬意を抱きます。
どうぞ安らかにお眠りください。
『瓢箪から人生』を読んで ― 2022年09月10日
皆さまもご存じの俳人夏井いつきさんのエッセイ集です。
彼女の存在を知ったのは、ご多分に漏れず、人気番組の「プレバト‼」。歯切れ良い俳句の添削と、愛情こもった褒め方、𠮟り方、気取らないオバちゃん然としたところも好感が持てます。
先月の新聞で、この本の紹介記事を読みました。そこには「俳句の種まき運動」を推し進めている、とあります。
夏井さんの生まれは愛媛県南宇和郡。現在も松山市在住です。松山といえば、あの正岡子規や高浜虚子を輩出した俳句の聖地。あたかも高齢者の趣味のように言われる俳句が、このままでは絶滅してしまう。危機感を持った夏井さんは中学校の国語教員だったので、まず子どもたちに俳句を広めようと思ったそうです。
「俳句の種まき」と聞いて、頭に浮かんだのは「エッセイの輪を広げる」という言葉でした。私は20代の頃から、カルチャースクールの木村治美教室でエッセイの書き方を学んできました。木村先生は当時、「エッセイスト」を名乗る草分けでした。教室には、先生に憧れてさまざまな年代の主婦が集まってきます。先生はそんな弟子たちを束ねて、主婦にも社会活動を促したのです。それが「エッセイを書く輪を広げる」活動でした。
バブル景気に沸く世の中で、グループのメンバーはエッセイ講師として各地で教室を持ち、少しずつエッセイを書く仲間を増やしていったのでした。
主婦だって、やればできる。そんな自信を持たせてくれました。
俳句とエッセイ、文芸の種類は違っても、目指すところは同じではなかろうか。
この本を買い求めたのは、そんな興味が湧いたからでした。
さて夏井さん。最初に相手にしたのは子どもたち。
男子校で、俳句を作らせて互いに良い句を選ばせると、1位になって拍手喝采を浴びる句は、
いもくえばパンツちぎれるへのちから
だというのですから、夏井先生のご苦労がしのばれます。しかし先生は怯まない。彼らの笑いを味方につけて、上手に俳句の楽しさを教え込んでいきます。
やがて先生は俳句集団を作り、句会ライブを思いつきます。会場に来たお客さんに、簡単な型をひとつだけ教え、俳句を作ってもらう。休憩時間に先生が選句し、決勝に残った7句から参加者全員の拍手で1位を決めるというやり方をとったのです。
無記名の俳句から、作者が明かされると、会場に笑いがこぼれたり、あらためて拍手が湧いたり、先生の人柄が醸し出す、なごやかな交流の場が目に浮かぶようです。
夏井先生はラジオやテレビにも顔を出し、「プレバト‼」はまさに種まきの効率を上げる格好の道具になりました。
さらに、リモートの句会やYouTubeまで利用し、時代の波に乗り遅れることなく、コロナ禍にもへこたれることはありませんでした。
そこには、おおぜいの人々との出会いと繋がりがありました。先生は、自分ひとりの力ではないのですよ、と強調します。
ところでもうひとつ、私が本を手にした理由があります。あれほど一語一語に神経をとがらせる俳人のエッセイには、さぞや煌めく言葉や表現が散りばめられているのでは、と期待したのです。
著書は、女性週刊誌に連載された文章を基にしていることもあって、口語に近い文体で、読みやすくてわかりやすい。期待したほどの文学的情緒的表現こそなかったけれど、読み始めるとすぐに引き込まれました。
教師として、俳人として、俳句の種まきに明け暮れる様子や、シングルマザーから再婚して家族会社を立ち上げるというエネルギッシュな生きざまは、文体がどうのこうのというレベルではなく圧倒的なおもしろさ。先生すごい! の一言です。
終盤には、生い立ちや家族のことも出てきました。温暖な土地とほのぼのとした愛情あふれる家族が、夏井先生を育てたことが伝わってきます。
父親が胃がんで亡くなって18年後、鰊(にしん)蕎麦をきっかけにして、嗚咽が噴き出したというくだりがあります。父の死を受け入れた瞬間を、てらいのない平易な言葉遣いでつづっているのに、読み返すたびにこちらまで泣けてくる。
まさしく名文でした。
俳句とエッセイと、違いは多々あるでしょう。とはいえ、どちらにも大切なのは、文体や言葉遣いなのではなく、作り手の魂が、日本語で伝えたい、言葉にしたいと思うことなのだと、改めて気づかされました。