エッセイの書き方のコツ(27):テーマは「育てる」 ― 2015年07月08日
この春、私が講師を務める通信エッセイ講座で、エッセイコンクールが行われました。テーマは「育てる」。
皆さんだったら、誰を、何を、「育てる」エッセイを書くでしょうか。
150編を超える参加があり、そのうちの半数は、やはり人間を育てる話です。子どもだったり、孫だったり、あるいは自分自身だったり。
妻が夫を家事メンに育てあげる、なんていうのもありましたが、一方で、熟年夫婦の夫が、妻に対する恋心をもう一度育てるというお話は、素敵でした。
子育てならほとんどの方が経験しているので、誰にでも書けそうではありますが、だからこそほかのエッセイとは違う何かがコンクールでは必要になります。例えば、ユニークな内容、独自の視点、洒脱な文章……といった強みがあれば、真っ向から「子どもを育てる」でも十分いけるでしょう。
人間以外というと、やはりペットや植物ですね。
その中に、子どもの頃、かわいがって育てた鶏を食べたという話が、2編もありました。戦後の食糧難を経験された世代の作品です。どちらのエッセイでも、生物の頂点に立つ人間が自然界の命をいただくことの意味を、親が子どもにきちんと教えています。胸に残る秀作でした。
テーマのあるコンクールでは、テーマがエッセイの主題に収まっていることが大事です。
どんなに感動的な話でも、テーマからそれてしまっては得点にはなりにくい。最後にこじつけたようにテーマの言葉が添えられているだけでは、その言葉がなくても成り立つようなもので、これも主題に収まっているとは言いがたい。テーマをいつくしんで書かれているか、その作品のいわば山の部分にテーマが感じられるか、というあたりが審査されるのです。
公募のエッセイコンクールなどもありますから、ぜひ、皆さんも挑戦してみてください。
ちなみに、今回最優秀賞を受賞した作品は、アメリカの若者の話です。エリート教育を受けた青年が、原爆投下された当時の日本の状況について深い知識を持ち、原爆の正当性を語る父親を冷静に批判した。日本でも自国の戦争と平和を考え、自らの考えを発信できる世代を育てなければならない、というものでした。
「時間的にも空間的にも、そしてテーマとしても、奥行きの深い作品」という審査委員長のコメントがありました。
ダイアリーエッセイ:旅立ちの朝 ― 2015年07月18日
このホームではときどき、修学旅行専用の電車が発着するのだ。通常のダイヤのすきまを縫うように、貨物専用の線路を通って、いくつかのJRの在来線をひた走って、日光まで直行するという。
その朝も、おそろいの帽子をかぶった小学生が列を作っていた。
ホームを歩きながら、車窓をのぞいてみると、ボックス席の女の子が手を振っている。まるで遊園地の乗り物からお母さんに手を振るように。
近ごろの小学6年生ともなれば、女の子もずいぶん大人っぽくなっている。見かけはたしかにそうなのだけれど、手を振る姿はまだまだ子どもね、と思ったら、私と目が合った。
待ちに待った初めての修学旅行で、昨晩は眠れなかったかも。電車に乗り込んだ今は、わくわくテンションマックスにちがいない。そんなときに、ホームのおばさんに手を振ってもらったら、この先きっと、旅先の人びととも楽しいふれあいができるだろうか……
目が合ったほんの1秒のあいだに、そんな思いが頭の中を駆けめぐった。
次の瞬間、私はニッと笑って、手を振り返していた。
(写真は、去年の11月に遭遇した修学旅行の専用列車)
明日、娘が一人暮らしに旅立っていく。
笑顔で手を振ってあげよう!
おススメの本、又吉直樹著『火花』 ― 2015年07月26日
一部のマニアは快挙を喜んだでしょうけれど、私も含め、一般の人々はへえ!と驚いたにちがいありません。
お笑い芸人のコンビ「ピース」の又吉直樹さんが、7月16日に芥川賞を受賞しました。候補に挙がったというだけでニュースだったのに、本当に受賞してしまったのですから。彼の文才は本物だったようです。
本物かどうかぜひこの目で確かめたくて、さっそく読みました。
どこも書店では売り切れで、通販アマゾンでも在庫切れ。こういう時に便利なのは電子書籍です。データの売り切れはありえない。
ブログにも書いているように、私の愛読書といえば、もっかのところ西暦2000年からの直木賞受賞作品です。芥川賞作品も読むことは読みますが、はっきり言ってつまらないものもあり、途中でほうりだすこともあります。
直木賞は大衆文学で、芥川賞は純文学というくくりがあるからでしょうか。
そもそも、私が追求するエッセイといえば、読みやすくわかりやすいことが一番。芥川賞を敬遠してしまうのも無理もない、と自分で言い訳をするのですが。
『火花』も、つまらなかったらどうしよう、と心配しなかったわけではありません。それも、数ページ読んで杞憂に終わりました。
まず、文体がきちんとしている。若い作者にありがちな、カタカナ言葉やはやり言葉が少ない。意外だったというのは失礼ですね。
売れない芸人の「僕」と、先輩として尊敬し、あこがれる神谷さんという人物との関わりが、感情を抑えた筆致で淡々とつづられていきます。
時に、漫才の掛け合いのようなセリフのやり取りが続いて、無条件におもしろい。時に、的確な言葉を用いて丁寧に人物を描写し、リアリティを生みだしている。その混ざり具合が心地よいのです。
そして、いつも章の最後の一文で締めている。これが静かなリズムを生んでいます。全体としても、構築の上手さを感じました。
もちろん技巧的なことだけではなく、私がいいなと思うのは、表現というものに正面から向き合っていること。神谷さんは漫才について次のように話します。
「……平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になりさがってしまわへんか?」
まさに、芸術すべてに共通することかもしれませんね。お笑い芸人であれ、前衛芸術家であれ、表現者の苦悩はその辺りにありそうです。
また、神谷さんは漫才師のことを、こんなふうに説明します。
「……あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動のすべてはすでに漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。……」
ここで私は、エッセイも同じだ、と思ったのです。
エッセイとは、その人自身が表れているもの。「文は人なり」です。巧みな文章力を持ったエッセイストだけが、優れたエッセイを書けるものではない。その人自身が魅力的でなければ、魅力的なエッセイは生まれない……
漫才も、小説も、エッセイも、自己表現の一つの手段に過ぎないことを、『火花』は改めて教えてくれました。
奇をてらわず、流行に流されず、自分を見つめ、生きることを真面目に見つめた好感のもてる小説でした。
まだまだ、ご紹介したいくだりはありますが、これから読む皆さんのために、このぐらいにしておきましょう。