新年のご挨拶2023年01月04日


ブログを覗いてくださっている皆さま、明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

いただいた年賀状で、思いがけない方、もう何年も会っていない方がブログを読んでくださっていることを知って、感激しています。ありがとうございます。

 

去年は喪中でしたので、新年の祝辞は控えましたが、2021年を振り返って22年の抱負を述べたのが、同じ14日でした。

さて今日も、2022年を振り返ってみますと、なんといっても、国内を旅したことと医者にかかったこと、その2本立てでした。

 

まず1本目。コロナ感染の波をかいくぐっては、ちょこちょこと近場の1泊旅行から、長くても3泊まで。数えたら10回。なんとまあよく出かけたことかと思います。

それぞれに記憶に残る旅でしたから、エッセイをつづり、ブログに写真とともにアップしていきたいと思いつつも、次の旅の準備や予習をしなくては……という具合で、なかなか時間が取れず、ブログがはかどりませんでした。

楽しみにしてくださっている方、ごめんなさい。今年もがんばって続きを書いていきます。

 

2本目は、前年に母を見送った疲れがどっと出たのか、体のあちこちに不具合が現れました。こちらも数えてみると、年間50回近くあれこれ通院をしています。

気がつくと、利き腕の左肩が痛んで、腕が上がらなくなりました。背中にも回りません。定評のある肩関節専門のドクターが、「五十肩というのは、日本だけの通称でね、本当は凍結肩というんです。これなら世界中どこへ行っても通用しますよ」と、60代の患者に慰めのような説明をしてくれました。

凍結肩は繰り返すそうで、私も3回目です。たしかに凝り固まってしまったような、ロックがかかったような状態が長引き、リハビリに通い続けました。

 

さらにそのクリニックで出会ったのが、骨粗しょう症専門のドクター。紹介してくれた大学病院での精密検査で、副甲状腺の異変が見つかり、来月には手術する運びと相成りました。

それについては前回、昨年1220日に詳しく書いたとおりです。

 

今年はここから始まります(ドラッグストアの名前みたいですね)。私の健康を取り戻す年になるでしょう。

 

コロナ禍も3年がたちました。

ようやく世の中の行動制限が解除され、マスク以外は3年前に戻ったような様相を呈しています。

しかし、3年間に被った目に見えない痛手はけっして軽くはないと思うのです。高齢者の立場からすれば、それは取り戻すことが難しいあまりに長い時間でした。

マスクを外して鏡を見れば、3年分老けた顔。ステイホームのおかげで弱った足腰……。おしもおされもせぬ年寄り感が押し寄せます。

 

いえいえ、マイナス面ばかりではないですね。

エッセイ仲間とリモートを活用して続けてきた勉強会は、外出するリスクも面倒もなく、時間節約にもなっています。作品を書き上げる励みにもなり、合評はもちろん、その後のおしゃべりもまた、えがたい情報交換です。

 

というわけで、ウィズコロナ&ウィズエッセイをモットーに、今年もまた、健康回復の治療と、コロナ感染の合間を縫って、あちらこちらに出かけていきたいと思います。そして、旅の話、本や映画の感想、自閉症の息子の話……などなど、書き留めていきます。

皆さま、お暇な折には、どうぞ覗きにいらしてください。

よろしくお願いいたします。

 


       ▲13日の青空と、ご近所の風見鶏



800字のエッセイ:「おめでとうございます!」2023年01月09日



昨年の春のこと、コロナが下火になったころ、友人たちと三島に1泊し、三島大社を訪れた。

社殿のそばに、錦の打掛姿の新婦と、紋付き袴の新郎がいた。でも結婚式ではなさそうだ。二人のほかに、地味なスタイルのカメラマンと助手らしき女性だけ。ああ、前撮りだ。

 

6年ほど前、娘夫婦も結婚披露宴とは別の日に、都内の公園で和装姿の写真を撮ってもらった。紅葉真っ盛りの季節で、赤い着物の娘はもみじの精のようだった。

通りすがりの人たちから声がかかる。

「きれいですね。おめでとうございます」

娘の幸せを願ってくれているのだ。「ありがとうございます」と答えながら、思わず涙ぐんだものだった。

その時から、どこかで新郎新婦に出会ったら私も祝福の言葉をかけてあげよう、と思っていた。

 

三島大社の慣れない衣装の二人は緊張しながらも、幸せそうに見えた。

「長引くコロナで結婚式もできなかったのね、きっと」

「やっと披露宴ができるようになったかな」

「記念写真だけですませるのかもね」

私たちオバサン組は、コロナ禍に愛をはぐくんできた見知らぬカップルについて、あれこれおせっかいな詮索に余念がない。

 

言葉をかけそびれているうちに、彼らは場所を替えるのか、どこかへ行ってしまった。

ホテルに戻ってくると、フロントにも和装の新郎新婦がいる。カウンターの背後の大きなガラス窓越しに、富士山がよく見えるのだ。

「あら、富士山をバックに前撮りね?」

 今度こそチャンスを逃すまいと、去りぎわの新郎に声をかけた。

「おめでとうございます!」

「ありがとうございます」と、事務的な返事。

すかさず隣にいた友人に突っつかれた。

「本物じゃないってば。モデルの撮影よ」

「……あ!」



 


▲このホテル14階の大浴場からの眺め。こんなふうに新幹線のホームの向こうに街が広がり、その向こうに富士山が姿を見せています。

 

ちなみに、今年のお正月には、富士山の夢を2回も見ました。

初夢のベストスリーは「一富士、二鷹、三なすび」。

いい年になりそうです。さてさて……?


1200字のエッセイ: ユーミンと私の50年2023年01月19日


 

        

   ユーミンと私の50 

 

昨年来、ユーミン50周年の記事や広告が新聞に踊っている。

もう半世紀にもなるのだ……と、ある記憶がよみがえる。

 

彼女がデビューして間もない頃、私が通う大学の文化祭で、彼女のコンサートが開催されることになった。彼女の婚約者の松任谷正隆氏が、大学の卒業生だったからだ。まだ現役の学生で、ユーミンファンだった私たちサークル仲間は、コンサートの実行委員とかけあい、無料で見せてもらう代わりに、出演者の接待係を仰せつかった。

コンサートは古い校舎のホールで行われ、殺風景なステージで、彼女はつばの広い帽子をかぶり、当時流行りのパンタロンスーツという衣装で、ピアノを弾いて歌った。あぶなっかしい歌いっぷりは、レコードで聴いていたのと変わらなかった。

ユーミンほか、ハイファイセットなどの出演者とスタッフのために、私たちは楽屋で紅茶を入れてもてなす。屈強な男子学生が、校内をボディーガードのように連れて歩く。握手もサインもなし。

同年代のユーミンに対して有名人だという緊張感はなかったけれど、ティーカップを洗いながら、なぜかふと、彼女は私たちとは別格の女王様のように感じられたものだ。

 

そして、半世紀が過ぎた。今なお、ユーミンは正真正銘の女王様であり続けている。あの時、こっそりサインの1枚でももらっておけばよかった……。

彼女は、想像できないほどの努力をしてきたことだろう。でも、それを感じさせないところが、女王様らしいかもしれない。

私はといえば、松任谷氏と同じ大学卒の男性と結婚したけれど、ユーミンとは違って3人の子を授かった。子育てをしながら、仕事も、趣味も、それなりにがんばってきたつもりだ。

非凡と平凡。たしかに違いは大きい。

しかし、かけがえのないそれぞれの命を燃やして生きてきた50年という歳月に、ユーミンと私、何の違いもないのだ。それだけは胸を張って言える。







▲当時、たまにレコードを買うこともあったけれど、たいてい貸しレコード店で借りてきてはカセットテープにダビングして聴いた。そのカセットケースには、曲のタイトルを書き、さらに曲のイメージの絵や写真を雑誌から切り取って挟み込んで、カスタマイズしたものだ。

もうテープを再生する機器も手元にはない。それでも、レコード以上に捨てがたいテープたちなのである。


copyright © 2011-2021 hitomi kawasaki