私の愛車がアフリカの大地を走る!の夢 ― 2013年12月07日
ナンバーは7373。その名を「なみなみジョニー」といった。桑田佳祐の「波乗りジョニー」のパロディだ。

ところが、最近になって、90歳の母の足になる機会がめっきり増えた。そして、車の床が高く、乗り降りの難しさが気になりだした。
そろそろ、買い替え時なのだろうか。ふと考えるようになる。
時を同じくして、
「近日、ニュー・オデッセイ誕生!」の情報を耳にする。なんというタイミングの良さ。じつは、ジョニーの前の車も、オデッセイだった。
わが家はなぜかHONDAのファン。最初にVIGORを買ってから30年近く、セカンドカーも含めた7台すべてが、HONDA車なのである。
初代オデッセイが発売されたのは次男がまだ赤ちゃんだったころ。CMには、アダムスファミリーが登場し、長い黒髪の妖艶な母親と、車を這い回る赤ちゃんが、私のハートをとらえた。わが家もCMと同じダークレッドのオデッセイを買い入れた。そして、ハンドルを握るのは常に私だった。

というわけで、ニュー・オデッセイと聞いて、購入へ心の針が傾く。
しかも、初のスライド式ドアで、ステップが低いとなれば、母を乗せるにはおあつらえ向きではないか。
そこへ、さらなる偶然が舞い降りてきたのである。
Facebookで、ある投稿が目に留まった。アフリカのケニアで献身的に支援活動を行っている日本人が、救急車代わりの車を探している、というのだ。
その人は、塩尻安夫さん。
1990年、ケニアの貧しい農村部のマキマという村に家族ぐるみで移り住む。
移住して半年後には、マラリアで長女を亡くすという悲劇にも襲われた。心がくじけそうになって帰国を考えたとき、奥さんの美智子さんの言葉が彼を支える。
「ケニアの子どもたちには、9歳で命を落とした長女の分まで生きてほしい」
それからは、どんな困難も家族で乗り越えていった。
以後23年間、現地の人々の医療、教育、環境保全に至るまで、支援活動を続けている。これまでに、診療所や学校、助産院、エイズ孤児のための施設などを開設。現在は、アフリカ児童教育基金の会ACEFのケニア事務所長を務めている。
https://sites.google.com/site/afrikachildreneducationfund/home
ところが、彼の車はすでに35万キロを走破。車体もボロボロで、いよいよ次の車を準備しなければならなくなったという。
この話を知ったとき、ジョニーの第二の人生が見えたのだった。
引き取られていく先は、スクラップ工場ではなく、アフリカの大地。しかも、救急車となって、ふたたび活躍するのだ。こんなに素敵な話はない。
この偶然は神様がしかけたもの。わが家がオデッセイを買い替えれば、みんなが幸せになれる。セレンディピティという言葉が浮かぶ。
すぐに、日本の代理の人と連絡を取った。
(続く)

愛車がアフリカを走る!の夢は、形を変えて…… ― 2013年12月11日
塩尻さんはとても喜んでくれた。
さっそく受け入れ態勢を整えるべく、費用を調べて手続きを開始したいとのことだった。しかし、それから2週間たっても返事が来ない。
「アフリカ時間」で進んでいるんですよ、と仲介者に言われて納得。急がせてはいけないと思った。
その数日後、届いた返事は、哀しい現実だった。
ケニアには、8年規制というのがあって、8年以上たった車を持ち込むことは法律で禁止されているのだそうだ。ジョニーは製造から10年になる。
それでも塩尻さんは、隣国のタンザニアかウガンダでナンバー登録し、そこからケニアに持ち込むことはできないか、と考えた。ところが、それもまた月々の手数料がかかる。輸送費、税金、今後の諸費用などを合わせると、莫大な資金が必要になることがわかったという。アフリカは国によって様々な規制が多く、外国からの支援を難しくしていると聞く。
塩尻さんは、涙をのんで、私の申し出を断念せざるを得ないという結論に至ったのだった。
ジョニーがもう2歳若ければ、塩尻さんのところに行けたかもしれないのに。
彼がアフリカを疾走する夢は、ついえた。
残念のひとことだった。

しかし、神様の仕掛けは、ここで終わらなかった。
「じつはタイミングよく、もう一人、車を探している人がいるんですよ」
そう言ってくれた仲介者の男性を、ここで紹介しておきたい。
彼、師岡さんと知り合ったのは、昨年、銀座で行われていた東北復興支援の東松島物産展で。チーム東松島の中心となって活躍していて、ボランティアに初めて足を運んだ私にも、わかりやすく復興支援の心構えを話してくれた。
彼は、震災の復興支援だけでなく、それ以前からボランティアの意識が高く、
human note というゴスペルシンガーズのメンバーとしても活動している。歌を通して社会活動を繰り広げ、アフリカ支援にも出向いて、ケニアで塩尻さんと知り合ったのだった。
サラリーマンであり、家庭を持ち、男の子の父親として保護者会にも参加する。みずから「サラリーマン社会活動家」の肩書を名乗っている。
人呼んでスーパー・サラリーマン・モロさん。
ピュアで人間愛に満ちた精神の持ち主、甘いマスクと穏やかな口調の癒し系……と言ったらほめすぎだろうか。
モロさんが見つけてくれた、もうひとつのジョニーの身の振り方。それは東北の被災地で活躍することだった。
そして、ジョニーを譲り受けたいというもう一人の人物というのは、岩手県陸前高田を拠点に支援活動を続ける、私の知っている女性だったのである。以前にも、チャリティバザーの物品を運んだり、養護施設の子どもたちの送り迎えをしたりして、ジョニーがお手伝いさせてもらったことがあるのだ。
またしても、偶然が微笑んだ。
今度こそ、話はとんとん拍子で進み、ジョニーは彼女のもとにもらわれることになった。別れの日、ガソリンスタンドできれいに掃除をし、ガソリンを満タンにして、都内の彼女の家に運転していった。


名義変更も済み、あさって13日、ボランティアのドライバーが運転して、いよいよ陸前高田へと旅立っていくという。
さよなら、ジョニー。10年間、ありがとう。
被災地の人々に寄り添って、第2の人生(車生?)を、元気に走り抜いて!
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かくして、わが家はニュー・オデッセイを買い入れました。
母の乗り降りは、少し楽になったようです。

数字にこだわる ― 2013年12月12日
長男モトはいつもどおりに出勤していきましたが、彼の胸はときめいているはずです。

小学校6年の時の連絡帳は今でも私の宝物の一つ。担任の先生の言葉の数かずを通して、最後の小学校生活の様子が、今でもなつかしく思い出されます。
その年の9月9日、先生は授業に使われていない小さな教室で、作業をしていたそうです。その時のことを、連絡帳にこう書いてくれました。
ちょっと感動したので一言。
朝、モト君が小教室に来て、珍しく黒板に何か書いていました。この教室へはよく来るのですが、黒板に書くというのはめったにないことでした。でも、あまり気にもとめず机の上で作業を続けていたのです。
少しして、モト君が「できたよ」と言うので黒板を振り返って見てみました。
すると、
「1999年9月9日9:09:09」
と書いてありました。
時計を見たら、まったく同じ時刻だったので、さらに驚きました。
モト君らしいですね。
もうおわかりでしょう。
今日も、12という数字が5つ並ぶ時刻があるのです。昨年は6つでしたね。
もうすぐお昼休み。そわそわしながら、作業をしていることでしょう。
無事にチェックできるといいけれど。
数字にこだわるのは、多くの自閉症者の得意分野なのです。

さて、息子の話はさておき、このブログのアクセスも、もうすぐ20000回になろうとしています。毎日のぞきに来てくださる皆さまのおかげで、順調に数を増やし、そのスピードも上がってきました。うれしいかぎりです。
本当にありがとうございます。
そこで、いつ20000ジャストをヒットするかが、楽しみになってきました。
クリスマス? 大晦日? お正月? はたまた、めでたくもない私の誕生日?
年の数が増えるのはちっともうれしくないですが、アクセス数が大台に乗るのは、うれしいこと。
20000をヒットなさった方、ぜひご連絡ください。
私の著書にスペシャルメッセージを書いて、プレゼントさせていただきます。
記念に受け取って喜びを分かち合ってくださったら、うれしいです。


ジョニーからの伝言 ― 2013年12月13日

今、僕は、冷え込む夜の東北道を、北へ向かってひた走っているところです。
これまでの小柄なhitomiドライバーではなく、見知らぬ男性の運転で。
無事に陸前高田に到着するように祈っていてください。
さて僕は、ケニアの塩尻さんのもとへは運んでもらえなかった。
ケニアには、8年規制という法律があって、車体がどんなにきれいでも、走行距離が短くても、製造から8年以上たった車は持ち込めないそうです。
僕は10歳でした。
いまなお塩尻さんはオンボロカーに乗り続け、救急車を必要とされています。
現地の人々、とくに子どもたちのため、教育や医療活動を献身的に続けている彼には、なかなか新車を買い入れる余裕はないのでしょう。
これを読んでくださる皆さん、8歳以下の車をお持ちの方で、塩尻さんの支援活動のために提供してもいいという方、ぜひぜひご連絡ください。
ジョニーからの伝言でした。

先日、塩尻さんのことを紹介した記事に、あるコメントが届きました。アメリカに住む日本人女性からです。
彼女は大学時代にスワヒリ語を勉強していて、ケニアに留学することになりました。ところが直前になって、ケニア分校では学生がマラリアで亡くなり、分校は閉鎖。結局彼女はケニアへは行けなかったのですが、在校生の話によると、そのとき亡くなった学生が助からなかったのは、救急搬送の車がなく手遅れになったからだそうです。日常的に車両の管理が悪かったということでした。
塩尻さんのもとにも良い状態の車が届くように、と彼女も祈っています。
私は、はっとしました。
ジョニーの第2の人生が決まったからといって、これで終わりではなかった、と。
ケニアとしては、少しでも車社会の環境を整えるためにも8年規制はやむを得ないのかもしれません。
皆さん、ジョニーの伝言、どうかよろしくお願いします。
塩尻さんがケニア事務所の所長を務める〈アフリカ児童教育基金の会ACEF〉の活動の様子を、以下のサイトでご覧ください。
https://sites.google.com/site/afrikachildreneducationfund/home


ダイアリーエッセイ:虹に願いを ― 2013年12月17日
歩くのは大変だが、それなりの風情もあり、見晴らしも変化に富む。
もちろん、車で走りまわるのも楽しい。
昨日のことだ。3時ごろ、国道246号線を南に向かって走っていた。
ここ数日、冬晴れの日が続く。
南の空には、飛行機雲がいく筋も走っている。飛行経路になっているのだろう。膨らみながら、白いタイヤ痕のような模様を描いている。
数日後には冬至。この時刻ですでに太陽は低い。それでも燦然と輝いている。
国道から脇道に入る。坂を見下ろす位置で、空が開けた。アッと思った。
一瞬虹が見えたのだ。
雨上がりでもないのに?
車を止めて、外に出た。
大きな西の空に、薄い雲が流れ、そのなかに輝く太陽があった。それをぐるりと取り巻くような大きな虹が見える。正確に言えば、見えたのは両側の部分。でも、雲の中に、たしかに大きな光の輪が見えるように感じた。
虹の一部は、長くなったり、太陽の分身のように光って見えたりした。
以前、虹に願い事をすると叶う、と聞いたことがある。
流れ星のように。
消えてしまわないうちに……


それはちょうど、虹の一部しか見えなかったのと同様、叶ったのはほんの少しだったかもしれない。願いに少し近づいただけかもしれない。
でも、ドキドキした。
願い事は、もちろんヒミツ。

ダイアリーエッセイ:不思議な虹の正体は ― 2013年12月18日
島根県でも、翌日の17日3時半ごろに同じ現象が見られたそうで、もっともっと見事な写真を撮った方がいました。
太陽の周りの光の輪は「内暈(うちがさ)」、私が「太陽の分身」のように思った両サイドの光源は「幻日(げんじつ)」と呼ばれる大気光学現象だそうです。
島根ではさらに、太陽の上のほうに逆さまの虹も見えたそうで、それは「環天頂(かんてんちょう)アーク」という名前だとか。
いずれも上空の薄雲を形成する無数の氷の粒の働きで、光が屈折してできるということです。
私が偶然見つけたこの情報は、産経デジタルのニュースです。
島根は出雲市での現象。神々しいほどの写真を、ぜひご覧になってください。

追悼 小川陽子さん ― 2013年12月19日
中村獅童さんのお母さんです。
30年近く前のこと、私が通うエッセイ教室に後から入ってこられて、一緒に勉強していた時期がありました。
色白の日本的な顔立ちで、背も高く、和服姿が板についている。気さくなおしゃべりがとても楽しい明るい方でした。
書くのは初めてだったのか、はじめはあまり文章がお上手とはいえませんでした。それでも、習うことをどんどん吸収し、めきめき上達。あっという間に梨園のエッセイストとして、執筆の依頼が来るようになった、と聞きます。
なんといっても、書く内容の面白さ、そして彼女の洗練された感性が、読ませるエッセイを生み出していったのでしょう。
ほどなく、小川さんは教室を去り、会うことはありませんでした。
歌舞伎には疎く、興味も持てない私でしたが、その後、獅童さんが俳優として頭角を現してきました。
まあ、お母さんにそっくり、と思ったものです。
そして、今年の春のこと。
友人宅を訪ねて、都内の方南町駅に降り立ちました。友人の案内で駅から住宅街のなかを歩いていくと、「よろずや塾」という看板を出している落ち着いた雰囲気の和風の家がありました。
「獅童さんのお母さんのおうちよ。書道とかお花とか教えているらしいの」
堂々とした門は開き、手入れの行き届いた植木などが置かれ、おとなしそうな猫が佇んでいます。玄関の戸も開いています。ひっそりと静まり返っていますが、おけいこの最中でしょうか。
もう何年もお会いしていないけれど、お懐かしい……。私のこと、覚えていてくれるかしら。
よほど、立ち寄ってみようか、と迷いました。
でも、急だからこの次に、手みやげでも持って、と思いとどまりました。
訃報を知り、悔やまれてなりません。
あの時、ごめんください、と訪ねればよかった。
「心配なさっていた息子さん、立派になられましたね」とお伝えしたかった。
再会が果たせなかったことに、さいなまれています。
人生なんて、いつどうなるかわからない。今日できることは明日に延ばさないで、できるときに何でもやっておかないと。
わかっているはずだったのに。
でも、こうやって、また取り返しのつかない失敗をしてしまう……
どこかで、うりざね顔の小川さんが、にこにことうなずいてくれているような気がします。
ご冥福をお祈りいたします。


ダイアリーエッセイ:昨日、誕生日で ― 2013年12月22日
誕生会もプレゼントも、なんとなくクリスマスと一緒にされてしまうようで……。
でも今は、この時期でよかった、と思える。街中がキラキラした装いで、私のために祝ってくれているみたいな気分だし、雪が降れば、それは天からの贈り物、素敵なホワイトバースデー!
昨日は、仲良し4人組と表参道のイルミネーションを見て、きれいなお店でショッピングをし、もちろん美味しい食事も楽しんだ。



この4人組は、同じマンションに住み、一緒に子育てをしてきた、いわば子育ての同志。とはいえ、子どもの成長とともに、それぞれの仕事のキャリアも積み、忙しい時間をやりくりして、一緒に楽しい時間を持つようになった。
私は最年長だけれど、もっとも子どもの年齢が低く、まして障がい児を抱えているので、一番みんなに助けてもらっている。

そして、プレゼントにもらうのは、写真入りの寄せ書きカード。
どんな高価な品物よりも、プライスレスな価値ある贈り物だ。
このカードも今年で12枚目。かけがえのない友情にあらためて感謝の夜だった。


20000ヒット、達成! ― 2013年12月22日

おかげさまで、さきほどブログのアクセス20000回を記録しました。
毎日読みに来てくださる皆さまのおかげです。
いつも、本当にどうもありがとうございます。
それだけ、多くの皆さまに足しげく来ていただいているということになります。
そのご期待に沿えるように、30000回を目指して、ますます充実した記事を書いていきたいと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
この記念すべき数字をゲットされた方、よろしかったらコメント欄か、
hitomi3kawasaki@gmail.com までメールをいただければ幸いです。
アクセスした時刻をお知らせください。
12月12日の記事に書きましたとおり、私の著書にスペシャルメッセージを添えて、プレゼントさせていただきます。
記念に受け取って喜びを分かち合ってくださったら、うれしいです。


モトのカウントダウンは…… ― 2013年12月30日
今年の月替わりのカレンダー12枚。新聞の折り込みでもらったものです。

毎日たくさん、小さな字で書き込みがしてあります。
ほとんどがjリーグやプロ野球など、スポーツの試合結果。
そのほかにも、「日本の歴史」や「JR全駅」などの記述があるのですが、私には見当がつきません。
さらに最近のカレンダーには、日付の横に○で囲んだ数字があることに気がつきました。さては……
ありました、9月23日の書き込みです。
この日から、カウントダウンが始まっているのでした。
さらに今週になると、曜日の締めのアナウンスがありました。
「今日は今年最後の水曜日です」
「今日は2013年最後の木曜日です」……といった具合。
「最後の」を声高に強調されるたびに、ああ今年も押し詰まってきたなあ、と私はいたずらに焦りを感じるのですが、彼は毎日アナウンスを欠かさない。
自閉症の彼は、カレンダーが、時間が、決してだれにも変更されることなく過ぎていくことに、ゆるぎない安心と、満ち足りた気分を味わっているのです。
このブログを書いているところに、ひょっこり彼がドアを開けて、感慨深げに言いました。
「明日で終わりだね、2013年は」
はいはい、そのとおりです。
皆さま、今年も大変お世話になりました。
来年もどうぞよろしくお願いたします。
良いお年をお迎えくださいませ。
